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【読了報告】孤伏澤つたゐ『はだしの竜騎士』
孤伏澤つたゐさんの『はだしの竜騎士』を読みました。
テキレボ4での戦利品です。
つたゐさんのご本を読むのは、『Last Odyssey』『瀞』に続いて三冊目です。
最近若干仕事が忙しく本を読む時間が削られがちなのですが、もーなんか読みたくてしょうがない! ということで本棚から選びました。

正直に告白いたしますと、つたゐさんのご本は、なんとなく通勤電車の中で読んでしまうのがもったいないような感じがしていました。
最初に『Last odyssey』を外出中に電車の中で読んだとき、これは申し訳ないことをしてしまったなあと思い、『瀞』はめちゃくちゃ待たされる病院の待合室で少しずつ読んだ憶えがあります。
通勤電車だと、私の場合家と職場もさほど遠くないからぶつ切りになってしまいますし、文章の一つ一つがどれも粒よりの真珠のように美しいので、スキマ時間の暇つぶし的に消費してしまうのが申し訳ないように勝手に思っていたのです。
毎日億劫な通勤を楽しみにしてくれるような、わくわくする本も素晴らしいのですが、つたゐさんのご本は休日に家でゆっくり読書の時間を取って読むべき本だろう、と。
実際には休日も映画に原稿その他みっちり予定がつまっていて、そんな時間はほとんどないわけなのですが。

でも『はだしの竜騎士』を読んで、そんな考えが少し変わりました。
変わったというか、分かったのです。
「私たちはつたゐさんの文章を消費できない」のだと。

(ここらで一旦畳みます。)







『はだしの竜騎士』は表題作ほか「落葉」「熱砂に伏して」「竜の王」の四編からなります。
帯に書かれた作品紹介文には、「まぶたを持たぬ竜と、あわく時間を交錯させるものたちの幻想小説」とあります。

日本で「ファンタジー」という外来語と、「幻想」という漢語の意味がいつ頃分かれたのか、私には見当もつきません。
もしかしたら最初から分かれていたのかもしれないし、分かれていると思っているのは私だけかもしれません。
ただ作品紹介にあるように、つたゐさんのご本にはなるほど「ファンタジー」よりも「幻想」という言葉がしっくりきます。
しっとりと確かな質量をもちつつも、わずかな毒をはらんだ水のように読者の心に浸潤する、ここではないどこかの物語。
ちょうど「竜の王」では、書物のことを「万人にむけての精神に作用する毒」といっていますが、つたゐさんのご本にはまさにそういった趣があります。

特に「はだしの竜騎士」で顕著ですが、収録されている四編はいずれも竜となにかの「交錯」を見つめる物語です。
つたゐさんご自身があとがきで書かれているように、「せりふや心理描写がすくなく、情景描写をつらねてものがたりを構築してゆく構造」によって、読者は「分かる」と「分からない」のはざまの、絶妙な距離に立たされます。
断じてお話の意味が取りにくいとか、言葉がむずかしいという意味ではありません。物語や語彙は、むしろ簡明です。
もう少し噛み砕いて言えば、「『分からない』ということを自然と分からされる」ような感じ、とでもいいましょうか。
竜という気高い種族の営みを、人間の視線から解釈を加えることができるような気になりはするのですが、同時にそれがいかに愚かしいかを思い知らされるのです。
「どうしても分かることができないものがある」とおのずから知る感覚は、さびしくも喜ばしく、実に得がたい体験でした。
それこそが、私が感じた「毒」の正体なのかもしれません。

毒は食物と違ってエネルギーとして消費することができません。わずかずつ静かに、体内へ蓄積されていくものです。
しかしながら、この毒はたいへんよい毒です。
「竜の王」に登場する人間の王は毒を摂取して徐々に弱っていきますが、つたゐさんの文章を読んでいる間の悦楽と、読んだ後の新しい感覚は、読む人の日常を豊かにしてくれるでしょう。
よい毒ならば薬では? いえ、それでも毒と呼びたいのは、なんとも官能的な、見てはいけないものを垣間見ているような気がするからです。
語彙力を放逐した言い方をすれば、「えろい」になるでしょうか。……ミもフタもありませんね!
ともかく、つたゐさんの文章を消費することなどできない、と分かったので、これからはどんどん通勤電車に持ち込もうと思う次第であります。

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2017'05'12(Fri)23:39 [ 同人誌の感想 ] . . TOP ▲